前回、「褒めることと叱ることのバランス」が重要であること、「プロセスを評価する」ことについて書きましたが、今回はその続編です。
コントロールできるものとできないもの
例えばパスをミスする、試合に負けるなど「結果」に関しては誰も意図して操作することができません。
あくまでも「結果」ですから、それをコントロールするのは不可能です。
しかしそれに至るプロセスはコントロール可能です。
選手を「褒める」のも「叱る」のも自分でコントロールできる範囲で行われるべきものなので、それを評価することが可能になってきます。
自分ではどうしようもない、コントロールできないことに対して叱られると選手のモチベーションは下がりますし、褒められてもそれは「再現性が無い」なものになってきます。
反対にコントロールできるものというのは「実現可能な事柄」であり「再現性がある」ものです。
自分の努力や意識でコントロールすることができ、外的な要素を含めない場合が多いので、それに対して「褒められ」たり「叱られたり」した場合、選手自信が納得しやすいものになるのではないでしょうか。
「何を求められているかを選手が理解する」ということ
つまり「褒められる」にしても「叱られる」にしても、「選手がそれを理解している」ことが重要になってきます。
「コーチが自分に対して自分がコントロールできる範囲内で何を要求しているのか」
これが理解できれば、いずれの評価であっても納得できるのではないでしょうか。
選手にとっては「なぜ自分が叱られるか理解できない」と感じることが一番の問題で、「納得」できれば素直に聞くことができます。
プレー以外で叱るべきことは、まず「常識」から考える
育成年代の選手たちは「人間的にも未熟」だったり「これから大人になる」段階です。
サッカー以外の面で言うと「いつ叱るか」は「常識」とリンクします。
「常識」とは「一般的に誰でも知っている雑学」ではなく、「人として当然あるべき姿」だったり「社会生活を営む」上での「当然のこと」でもあります。
チームのルールを守らなかったり、嘘をついたり、弱者をいじめたり、人のせいにしたりなど、「人としての常識」を欠いた場合は、思いっきり叱った方が良いでしょう。
「常識」なので「理由はない」
朝起きた時に「おはよう」というのは「理屈で考える」ことではなく「人として当然のマナー」です。
「一生懸命にプレーして失敗した選手を笑ってはいけない」のは「笑ったらその子が可愛そう、その子の気持ちを考えたら」などという理屈ではなく「常識」です。
弱いものをいじめてはいけないというのも「理屈で考えること」ではなく「常識」の範囲です。
三角形の内角の和が180度になる理由を考えるより、「そういうものだ」という前提で話を進めないと次に進むことができません。
全ての数学の基礎を学んだ後に「学者」としてなぜ360度になるかを考えれば良いわけで、それは全てを知った後に考えることです。
極端な例ですが、「人間として正しい行動は理屈ではなく、そういうものだ」と教え、大人になったら「哲学的に考える」という流れではないでしょうか。
特に年齢の低い子どもたちは、まだ善悪の区別もあまり理解できない段階ですが、サッカーを通じてのそのような教育を行うことはとても重要なことだと思います。
ただ褒めるだけでは成長しない
どうしても、今までの日本のスポーツ界では「厳しく育てる」という風潮があまりにも強かったために、それに反発する形で「褒めないと伸びない」という極論が出てくるのは理解できます。
実は私もそのような風潮に嫌気がさし、「褒める以外はやめよう」と指導したことがあるのですが、その結果は「あまり意味がなかったな」という感想です。
ボトムアップ理論にも取り組んだことがありますし、とても厳しく選手に接した時期もあります。育成年代に携わり20数年の間で様々な方法を試しましたが、結論としては「褒めることも叱ることも重要」ということです。
しかし、「何を褒めて何を叱るか」という「何を」の部分は、子どもの自主性を育むためには重要な要素だと感じています。
コーチであれ、保護者であれ、「そこに一定の基準」があることがとても重要です。
同じことをしても「ある時は叱られてある時は褒められる」というようなケースは、選手が不信感を抱くでしょう。
また、いずれの場合も「そこに真剣にその選手(子ども)を成長させたいという真摯な情熱」があれば、少々間違っていても後ほど選手に伝わるものだとも思います。
褒めるも叱るも、大人の子どもに対する「情熱」を欠いていては、そもそも意味をなさないものになってしまいます。
レアッシ福岡フットボールクラブ ディレクター 吉廣
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